バマコの町を歩いていて、一番最初にすぐに目に付くのが、ゴミの多さだ。

路上に無造作に投げ捨てられたゴミ。

同路端のゴミ

生活をしていると、その問題は顕著だ。
ソトラマ(バスの一種)に乗ると、目の前で芋やらピーナツやらを食べる。
皮をむいて、そのまま車内か窓の外に投げ捨て、ひたすら食べる。
時々車外に捨てるときに、通行人に当たりそうになり、見ているこちらがヒヤリとする。
(口に入れたものもぺっと吐き出す。これは好きになれそうもない)


 

そう、ここの人たちはゴミを投げ捨てるのが当たり前なのだ。

しかしながらマリ人はとてもきれい好きだ。
毎朝、陽が昇るか昇らないかの時間から箒で地面を掃き、
きれいに、本当にきれいに模様を描くように(写真を撮り忘れてしまった)掃除する。
そう、まるで枯山水の庭の如くきれいなのだ。
(その他の点でも、多くのきれい好きたる事例があるが、別に書くことにする)

だから、いったいなぜゴミを投げ捨てるのか、大きな疑問が生まれる。

教育の問題だろうか、とある人が言った。(日本人で集まると、よくこの国の教育について話すのだ)
私ももちろん、最初はそう考えた。道徳的な問題や情操教育など、確かに原因はありそうだ。

しかし、私は教育の問題ではないと考えることにした。
なぜなら教育というのは、その文化や価値観の中で何を選択し、教えるか、非常に難しい問題だからだ。
日本のような成熟した社会と、まだまだこれから発展途上にある国。教育の内容がまったく同じなわけは無く、そもそも宗教が違う以上、根底となる考え方が違うのだから。

そこで考えたのがこの国の歴史的な背景だ。

つい最近まで、この国にはペットボトルやビニールなどのプラスティック類や、ビン缶といった無機物ゴミはなかったハズだ。
それがいつの頃からか、ヨーロッパを始めとする先進国の国々から止めどなく輸入されるようになり、日常に氾濫した。それは便利で安くて、簡単だから、普及もする。
まだ無機物という考え方、資源の再利用や処分の仕方を、自分たちなりに文化として創り上げるスピードより速く、新しいモノが入ってきてしまった。

その為に今まで通りのゴミと同じ扱いをしてしまっているのではないだろうか。

元来この国は、砂漠という厳しい自然環境と隣合わせに生き、文明を発展させてきた。
その知恵なのではないか?
こうしてゴミを投げ捨てて、それがすべて有機物であった頃は、次の肥料として自然に生態系の環の中に還っていく。
それが今まで続いており、気がつかないうちに、自然分解されないゴミが街中に氾濫するようになり、いつしかそれが当たり前となっていった。

そう考えてみるとどうだろう、教育の問題であることはたしかに間違いないのだろうが、少し別の視点から、肯定的に『文化』としてみることができるような気がする。

私はこうして、この国の一つ一つを理解していきたいと思う。